「安積疏水」現存する明治時代の遺構は?

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安積疏水は、1879年(明治12年)から1881年(明治15年)の、わずか3年余りの月日によりのべ85万人を動員して完成させた国営第1号の農業水利事業です。猪苗代湖から安積原野までの幹線52Km・分水路78Kmにも及ぶ安積疏水の完成は、郡山の発展に大いに寄与したことは云うまでもありません。
明治19年(1886年)には国から福島県へ、明治21年(1888年)以降は県から安積郡郡山町外13ケ村岩瀬郡仁井田村猪苗代湖疏水普通水利組合を経て安積疏水普通水利組合へ、現在は昭和27年(1952年)に変更された「安積疏水土地改良区」によって維持管理されています。
明治15年の完成から幾度となく改修が繰り返され、現在も現役で運用され続ける安積疏水は、多くの尽力を費やし苦労と努力によって支えられて来たことは云うまでもありません。しかし、現役であり続けるからこそ明治の産物は令和の時代までそのまま残されることはありえなかったとも云えます。
ここに紹介する2つの地点は、当時の安積疏水の一部として「明治の偉業」と思いを馳せてもらえたら幸いです。(撮影:山潟-6/10/2016、熱海-8/21/2016)

■「安積疏水」明治時代の遺構〜その1/山潟取水口跡の堤

↑明治時代に完成した安積疏水は、山潟取水口から猪苗代湖の水を取入れていました。今では埋め立てられた山潟取水口跡には対になる(二つの)堤の先端部分を見ることができます。当時の猪苗代湖は今よりもずっと水位が高く、一帯が湖水で覆われていました。
※現在この堤部分は、猪苗代湖を含めた国立公園内にあるため、自然公園法(旧国立公園法)によって国が管理しています。

↑北側にある堤の先端部分。コンクリートで固められていますが、当時のまま残されています。※角のように見える二つの突起は、置いてある切り株の椅子?らしきものです。

↑南側の堤の先端部分。こちらの土台は石垣で綺麗に囲まれています。一部に植物が茂り、上部はやはりコンクリートで覆われています。

↑南側の堤上から現在の安積疏水取入れ口の上戸頭首工を望みます。ここから西へ直線で350mくらい先の、真っ正面の突き出た湖岸線沿いにあります。

↑北側の堤。コンクリートもかなり痛んでいます。手前部分から猪苗代湖の水を引いていました。

↑南側の堤。同じく、右側の手前部分から猪苗代湖の水を引いていました。

↑今では土が盛られ松の木などが茂っていますが、ここが安積疏水のスタート地点です。昔の写真からすると、猪苗代湖の水位が高く左右一杯くらいの幅で流れていました。圧巻ですね。

■「安積疏水」明治時代の遺構〜その2/熱海疏水橋の礎石

↑五百川を横断する熱海疏水橋の工事は、1879年(明治12年)の12月に着手され、明治14年9月に完成しました。当時は石造りの2連アーチ橋のため「眼鏡橋」の愛称で呼ばれていたようです。しかし、完成当初より凍結などにより漏水が激しく何度も改修工事をしています。明治20年には通水部分を鉄樋へと改造したため、「熱海鉄樋」と呼ばれたそうです。1977年(昭和52年)3月に、現在の水管橋へと架け替えられています。
今でも五百川河川敷の眼鏡橋のアーチが建っていた場所には、礎石の一部分を見ることができます。

↑五百川に残る礎石。この上には綺麗なアーチを持つ眼鏡橋が架かっていました。大分県から集められた石工の児島組が石橋の工事をしました。

↑水に洗われて輝いて見えます。

↑一部に、2段目の石も残っています。

↑上流側には礎石の周りを固めていたコンクリートの土台跡の一部も残されています。※このコンクリートは、1931年(昭和6年)に疏水橋が吹き付け補修工事が施された時、一緒に行われた大規模改修工事のものかは分かりません。

↑コンクリートにはかなり大きな礫石が混ぜられていたようです。

↑今では五百川に青色の水管が横断しているだけです。昔の残されたアーチ橋の写真を見て想像するに、安積疏水の完成によりここは「熱海の眼鏡橋」として一大観光名所となったのではないでしょうか? 今も、見たかったですね。

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