安積開拓藩士に触れよう

二本松藩に見る開拓の軌跡
久留米藩に見る開拓の軌跡(北久留米)
久留米藩に見る開拓の軌跡(南久留米)
棚倉藩に見る開拓の軌跡
岡山藩に見る開拓の軌跡
鳥取藩に見る開拓の軌跡
土佐藩に見る開拓の軌跡
会津藩に見る開拓の軌跡
米沢藩に見る開拓の軌跡
松山藩に見る開拓の軌跡

松山藩に見る開拓の軌跡

matsuyama20
明治15年5月政府勧奨により中牛庭原(安積町)に15戸が入植。翌16年に1戸、更に17年にも1戸の計18戸が入植しました。松山士族は安積の地で初めて種甘藷(サツマイモ)の栽培を成功させるなど、農作物の栽培方法に優れていました。
伊予の三嶋神社の分霊を祀った「三嶋神社」(みしまじんじゃ)があります。
明治44年12月には大久保利通公を祀った大久保神社(おおくぼじんじゃ)に追遠碑を建立しました。
※「大久保神社(おおくぼじんじゃ)」は2016年(平成28年)4月19日(火)、文化庁によりに開催された「日本遺産審査委員会」の審議を経て、「日本遺産」に認定された37の構成文化財の一つです。
※「三嶋神社(みしまじんじゃ)」は2016年(平成28年)4月19日(火)、文化庁により開催された「日本遺産審査委員会」の審議を経て、「日本遺産」に認定された37の構成文化財の一つです。
(さらに…)

米沢藩に見る開拓の軌跡

yonezawa1
安積開拓の中心人物である中條政恒はもちろん、開拓所の県官立岩一郎・石井貞廉、時の福島県令山吉盛典はいずれも米沢士族出身であり、安積開拓には米沢藩士族が大きく関わっていました。
1883年(明治16年)には移住開墾人として米沢士族13戸が四十壇原(三穂田町駒屋)に入植しており、桑野村(大槻原)には2戸入植しています。
1932年(昭和7年)10月には中條政恒翁の顕彰碑が開成山大神宮境内に建立されています。
(さらに…)

会津藩に見る開拓の軌跡

aizu1
戊辰戦争に敗れ、悲惨な落城を迎えた会津藩士族は、藩主松平容保の子容大とともに青森斗南に移封させられたが、想像を絶する厳寒と過酷な生活によりやむなく会津若松に帰郷しました。
明治14年に政府勧奨により入植しましたが、途中三森峠では猛吹雪に見舞われて難行苦行の末到着したとのことです。はじめは32戸全部が南原に入植する予定でしたが、入会地の少なくなることを恐れた付近の農民が猛烈に反対したため、大槻南原(大槻町)13戸・駒屋北原(三穂田町)3戸・塩の原(三穂田町)15戸・湯の原(三穂田町)1戸の分離入植となりました。安子ヶ島、対面原1戸。
更に、入植原野は地形水利が悪く、度重なる疏水開削願いの末、ようやく疏水路が完成するなど苦難を強いられました。「一尺を開けば一尺の仕合わせあり、一寸墾すれば一寸の幸せあり」の正に忍耐と挑戦の不撓不屈の精神であったことと思われます。
(さらに…)

土佐藩に見る開拓の軌跡

tosa12
明治13年に政府勧奨により、入植開始。
廣谷原(東原、中原、西原)には高知開墾社が71戸,山田原(多田野町)の20戸と赤坂(逢瀬町)の5戸は高知協力組が入植し開墾に従事しました。廣谷原は東西に細長く、西南側は高知藩、東北側には鳥取藩が移住しました。ちなみに東原に20戸・中原に25戸・西原に26戸が分散して入植しました。
明治24年6月には廣谷原(富田町)に食物・穀物を司る神の豊受大御神を祀る「豊受神社」(とようけじんじゃ)を奉遷しました。
山田原では、移住してきた高知士族たちが菅原道真を奉斎し、隣の北沢では八幡太郎を祀っていたことから、八幡と菅原の一文字ずつとって合祀し、八菅神社(やすがじんじゃ)を祀りました。
※「豊受神社(とようけじんじゃ)」は2016年(平成28年)4月19日(火)、文化庁により開催された「日本遺産審査委員会」の審議を経て、「日本遺産」に認定された37の構成文化財の一つです。
※「八菅神社(はちすがじんじゃ)」は2016年(平成28年)4月19日(火)、文化庁により開催された「日本遺産審査委員会」の審議を経て、「日本遺産」に認定された37の構成文化財の一つです。
(さらに…)