検証!一本松から出磬山(でけいやま)は見えるのか?

福島県の典事として赴任した中條政恒は、1873年(明治6年)3月に安積原野(開成山地域)を訪れました。その時の様子が、中条政恒の伝記ともとれる「安積事業誌」の四之巻に記されています。ここにその一部分を紹介します。
「路ヲ郡山駅八幡社ノ側ニ取リ西向ス。駅外ニ出バ満目桑畑林ノ如シ。〜中略〜行ク十四、五町、一本松ニ至ル。則チ此辺ハ郡山ト大槻村原野ノ経界トス。〜中略〜首ヲ挙ゲテ西望スレバ、曠原漠々極マル所ヲ知ラズ。原中ノ西遥ニ弧山アリ。一ハ大ニテ一ハ小、〜中略〜而シテ大ナル者ハ其頂上ニ一大松樹アリテ蟠踞シ、小ナル者ハ其頂上ニ一大杉樹アリ。之ヲ問ヘバ、大ナル者ヲ出磬山(でけいやま)トシ、小ナル者ヲ放森(はなれもり)ト答フ。〜以下略」
▲〈参考文献〉「中条政恒 安積事業誌 ー翻刻と研究ー」発行:歴史春秋出版株式会社
本文中に「大なるもの出磬山(でけいやま)、小なるもの離森(はなれもり)」と記載されている通りであれば、一本松から松を頂いた大きな出磬山と杉を頂いた小さな離森(現開成山大神宮周辺)が見えたようです。

↑実際に一本松から西の方角を望みますが、出磬山も離森に建つ開成山大神宮も建物が邪魔をして見えません。(当たり前ですが…)

↑ちなみに、一本松の敷地にはある案内看板には下記の紹介がされています。
一本松〈アカマツ〉
地名にもなっている一本松地内にただ一本そびえるアカマツ。推定樹齢300年といわれ開成山一帯がまだ「離れ森」と呼ばれていた頃から自生する。
明治6年、明治政府の意向を考え開拓の父と今も慕われる中条政恒が阿部茂兵衛など商人25人に「開成社」を結成させ開拓をはじめた歴史的な場所で安積疏水開削の引きがねとなり郡山村から開拓地の目印として存在していた。開拓の昔を今に伝える遺産として昭和58年、件の緑の文化財に登録された。平成26年9月26日

↑また、緑の詩 郡山の森・林・樹木ガイドブック 一本松の表示があります。  平成19年11月5日選定。

↑一本松が接する内環状線と、さくら通りの交差点から出馨山方面を望むと、正面の信号機の先に郡山市役所 西庁舎が見えます。
出磬山の標高は292.7メートルで、郡山市役所の標高は245メートルなので差は47.7メートルです。出磬山は郡山市役所から約3.5キロメートル西北西の位置にあるので、8度位の角度で見えたようです。目線に腕を伸ばした握りこぶし一つにも満たない高さ分なので、当時は出磬山までの間に障害物となるような大きな木々が少なかったようですね。

■検証2 開成館からは出磬山が見えるのか?

↑せっかくなので、開成館からは出磬山は見えるか確かめてみました。開成館3階の北に面する窓からは、郡山女子大学附属高等学校の校舎の一部が視界を塞いでいますが、かろうじて出磬山の一部が見えます。
右の山に見える神殿のような建物は、東北歯科専門学校の歯科技工士科 片平校舎です。

■検証3 開拓墓地からは出磬山が見えるのか?

↑次に郡山市開成の開拓墓地に祀られている中條政恒翁のお墓からも出磬山が見えるか確かめてみました。建物の屋根が邪魔していますが出磬山の一部がかろうじて見えます。
中條政恒は福島県令の安場保和とともに出馨山に登り、眼下に広がる安積平野を見渡し安積開拓について思い描いたとされています。後に「号」を磬山にする程とても思入れのある山でした。いつでも見える素敵な場所に祀られているのですね。