会津藩に見る開拓の軌跡

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戊辰戦争に敗れ、悲惨な落城を迎えた会津藩士族は、藩主松平容保の子容大とともに青森斗南に移封させられたが、想像を絶する厳寒と過酷な生活によりやむなく会津若松に帰郷しました。
明治14年に政府勧奨により入植しましたが、途中三森峠では猛吹雪に見舞われて難行苦行の末到着したとのことです。はじめは32戸全部が南原に入植する予定でしたが、入会地の少なくなることを恐れた付近の農民が猛烈に反対したため、大槻南原(大槻町)13戸・駒屋北原(三穂田町)3戸・塩の原(三穂田町)15戸・湯の原(三穂田町)1戸の分離入植となりました。安子ヶ島、対面原1戸。
更に、入植原野は地形水利が悪く、度重なる疏水開削願いの末、ようやく疏水路が完成するなど苦難を強いられました。「一尺を開けば一尺の仕合わせあり、一寸墾すれば一寸の幸せあり」の正に忍耐と挑戦の不撓不屈の精神であったことと思われます。

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↑大槻南原 旧会津藩士族 入植者の碑。
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↑説明文、
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↑郡山商工会議所青年部。平成6年5月吉日建立。
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↑南原集会所の敷地内に建つ。
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↑南原開拓記念碑。昭和37年5月1日。
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↑昭和40年8月に建立された区画整備記念碑。組合長は安田亮 氏になっている。

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↑どんと焼き風景。
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↑対面原(安子ヶ島)の棚倉藩士が祀った三柱神社の鳥居横には、会津藩で唯一入植した「春日 茂」氏の功労碑があります。昭和13年4月15日。

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