平成に見る安積開拓・小林久敬(須賀川市)

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小林久敬(こばやしひさたか)は、1821年(文政4年)須賀川の中町で町役人を務めていた小林久長の次男として生まれました。若くして安積疏水の必要性を説き、全財産を投げ打って測量を行うなど、用水路づくりに奔走しました。
ところが、1879年(明治12年)、安積疏水工事に着手した政府と県は、オランダから技師・ファンドールンの指揮の下、わずか4年の短期間で安積平野へと開通させました。この時の久敬の思いはいかほどであったのか。
晩年は病気がちとなり、1892年(明治25年)、如法寺住職に看取られたながな亡くなったとのことです。71歳。
須賀川市の神炊館神社と天泉幼稚園以外にも、郡山市の愛宕神社には久敬の碑が建っています。
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平成に見る安積開拓・中條政恒(郡山市)

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安積開拓(大槻原開拓)は、県令(知事相当職)の安場保和(やすばやすかず)の指示のもと、典事(課長職)であった旧米沢藩士の中條政恒(なかじょうまさつね)によって開始されました。士族授産を目的にしたこの事業は、手始めに大槻原への旧二本松藩士族の移住から始まりました。
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平成に見る安積開拓・小林久敬(郡山市)

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文政4年(1821年)に須賀川に生まれた小林久敬は、猪苗代湖から水を引けば収穫に苦しむ農民達を救えると考えていました。その思いから猪苗代湖と岩瀬地方が一望できる斉木峠からトンネルを掘り水を引く案を立て、全財産を投げ打ってその用水路の実現に取り組みました。
しかし、久敬の計画は須賀川の有力者達から賛同も得られず、明治政府と県は沼上峠案のルートで安積疏水の工事が進められたため、実現しませんでした。
でも、久敬の安積疏水へかける功績は安積疏水完成した後に認められ、1884年(明治17年)10月1日の通水記念日に民間功労者として明治政府から銀杯が贈られています。
郡山の荒池のほとりにあばら屋を建て生活をしていた久敬は、晩年に郡山市の如法寺住職・鈴木信教に賓客として迎えられましたが、明治25年(1892年)に病のため71歳の生涯を終えました。
「あらたのし田毎(ごと)にうつる月のかげ」という句は、久敬が田に水が満ちあふれている様を詠んだ句であり、久敬が長年思い続けてきた喜びの姿がしのばれます。郡山市の愛宕神社意外にも、須賀川市の神炊館神社と天泉幼稚園にも久敬の碑が建っています。
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