平成に見る安積開拓・小林久敬(郡山市)

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文政4年(1821年)に須賀川に生まれた小林久敬(ひさたか)は、猪苗代湖から水を引けば収穫に苦しむ農民達を救えると考えていました。その思いから猪苗代湖と岩瀬地方が一望できる斉木峠(さいきとうげ)からトンネルを掘り水を引く案を立て、全財産を投げ打ってその用水路の実現に取り組みました。
しかし、久敬の計画は須賀川の有力者達から賛同も得られず、明治政府と県は沼上峠案のルートで安積疏水の工事が進められたため、実現しませんでした。
でも、久敬の安積疏水へかける功績は安積疏水完成した後に認められ、1884年(明治17年)10月1日の通水記念日に民間功労者として明治政府から銀杯が贈られています。
郡山の荒池のほとりにあばら屋を建て生活をしていた久敬は、晩年に郡山市の如法寺住職・鈴木信教に賓客として迎えられましたが、明治25年(1892年)に病のため71歳の生涯を終えました。
「あらたのし田毎(ごと)にうつる月のかげ」という句は、久敬が田に水が満ちあふれている様を詠んだ句であり、久敬が長年思い続けてきた喜びの姿がしのばれます。郡山市の愛宕神社意外にも、須賀川市の神炊館神社と天泉幼稚園にも久敬の碑が建っています。

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↑愛宕神社内にある小林久敬の説明文
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↑安積疏水の必要性を訴えた碑
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↑明治27年(1894年)に建てられた碑。漢文体で記されているため難解。
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↑昭和29年(1954年)小林久敬を広く知らしめるため、須賀川市の杉原文吾らにより建てられた碑。
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↑「あらたのし田毎にうつる月のかげ」全財産を投げ打って安積疏水の必要性を説き亡くなった小林久敬の辞世の句として知られている。
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↑小林久敬翁頌徳建碑協賛者芳名の碑。
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↑後ろから望むと分かるが、碑の前に建つ物置が近すぎる。
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↑碑の前の物置はとにかく圧迫感がある。
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↑愛宕神社の北側には荒池公園が広がる。
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↑碑の隣にある愛宕神社の拝殿。
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↑拝殿の額。
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↑拝殿内。
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↑南手に続く参道。
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↑参道は階段にて続いている。
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↑鳥居から続く階段の上に愛宕神社の拝殿と小林久敬の碑がある。鳥居の両側は民家が並んでいる。

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